17月3日
17月3日
昨日までずっと雨だった。今日は久しぶりに晴れたので、朝から何度も洗濯機を回した。でもうちのベランダは狭いので、干せなかった分はコインランドリーで回した。乾燥を待っている間に、夢を見た。私は森の中で誰かに追いかけられていた。夢の中ではいつも走ることができないので、私は両手を地面について、四つん這いになって逃げ回った。しかし相手はいとも簡単に、私の身体をひょいと持ち上げた。その瞬間、目が覚めた。持ち上げられた時の縄で縛られたような胸の苦しさと、ぬちゃとした冷たい泥の感触が手のひらに残っている。地面が濡れていたので、きっと夢の中でも昨日、雨が降ったのだろう。乾燥機を開けると、むわっとしたあたたかい空気が顔の前に広がった。私は出来上がったほかほかの洗濯物を、泥まみれの両手いっぱいに持ち上げ、優しく抱きしめた。
17月11日
今日、台所で食器を洗っていたら、天井からコツ、コツ、コツと物音が聞こえた。ピンポン玉を壁打ちならぬ、床打ちでもしているような、きれいな高音。上階に住んでいる人とは出会ったことがない。なんの音だろう、と思ったけれど不思議と嫌な気持ちにはならなかった、だってあまりにもリズム良くそれが鳴るので。とんでもなく卓球が上手な人なのかもしれない、上階の住人は。面倒くさい皿洗いも「コツコツ」のリズムに合わせて鼻歌を歌っていたら、あっという間に終わってしまった。ちょっと助かった。
17月17日
子どもの頃
雨の公園でひとり 遊び狂っていたら
お母さんにとびきり怒られたっけ
でも とっても楽しかったなあ
とっても楽しかったなあ
だって 天気が変わるだけで 特別
つまり 気分が変わるだけで 特別
いまも 猫とすれ違うだけで 特別
右手が寒さで凍えていたら
左手がぎゅっと 右手を抱きしめた
右手はかじかんでいたから
よく分からなかったらしい
でも 微かな心臓の震えだけは
伝わってきたんだって!
いまも 温かくなるまでずっと 握手
つまり ごはんも食べないまま 握手
だって 箸を持つこともできず 握手
17月19日
コツ、コツ、コツ、と上階から聞こえるようになってから、何日か過ぎた。聞こえる頻度や時間帯はさまざまで、規則性はない。リズムも、アップテンポな時もあればスローな時もある。せっかくなので皿洗いのタイミングをコツコツタイムに合わせるようにしたら、鼻歌のレパートリーもたくさん生まれた。しかし、食後のタイミングに合う日は助かるのだが、夜遅くなってもはじまらない日は、しばらく台所の前で待っていなければならなかった。諦めて布団に入った途端にはじまったり、深夜の2時にコツコツ叩き起こされた日にはさすがに困った。睡眠や生活リズムを乱されるのは困るので、そういえば、と、苦情を言いに行こうかどうか、考えることにした。
17月23日
苦情を言いに行こうと考えてから、何日か過ぎた。近隣の住人に苦情を言いに行くのは初めてなので、私にとってはとても勇気のいる行動だった。上階の人とは面識もないし、引っ越しの時に挨拶もしなかったので、やっぱり直接言いに行くのは躊躇われる。それならば、手紙で伝えようと思い立ち、机からレターセットを引っ張り出し、一文のみ、「ピンポン玉をコツコツ言わすのはやめてください。」と書き、封を閉じた。
17月29日
手紙をしたためてから、何日か過ぎた。手紙という手段を使ったところで苦情は苦情だ。そもそも本当にピンポン玉の音なのかも分からないし。今日は郵便受けまで行ってみたが、やっぱり出すことができなかった。私にとってはとても勇気のいる行動なのだ。いやでも、もうそれならばと、私は100円ショップまでひとっ走り、ピンポン玉を買ってきた。帰ってくると、待っていましたと言わんばかりに、天井からコツ、コツ、コツ、と、いつものリズムが鳴っていた。
17月31日
今日の「コツコツ」は、いつもよりもアップテンポな気がした。不思議とリズムが心地よい。私は、その心地よい「コツ」と「コツ」の間をめがけて、天井に向かってピンポン玉を投げようとした。身体でリズムを刻みながら、手汗でピンポン玉が滑ってしまわないうちに、上へと放った。
「コツ」「コツン」「コツ」
毎日聞いているおかげでタイミングはバッチリ、しかしその瞬間、ぴたりと上階からの音が止んだ。
あ、聞かれた。気づいた。届いた。
汗まみれの自分の両手に気づき、余計な音を立てないよう気をつけながら、手汗をズボンの脇で拭った。
「コツ」。
少しの間の後、返ってきた。それから、
「コツ、コツ」。
2回、音が聞こえた。先ほどよりゆったりしたリズムで。
なので、私も、そのリズムに合わせてピンポン玉を投げ返した。
「コツ、コツ」。
小さな沈黙が流れた。
私からもう一度投げてみた。
「コツ」。
「コ ツ」。
返ってきたコツは、優しく、あたたかいコツだった。きっと、住人の手の中であたためられたピンポン玉の熱が、床と天井をすり抜けてこちらまでやってきたのだ。私は、「コ ツ」と床に投げ落とされた後、吸い込まれるように住人の手の中に戻っていく冷たくなったピンポン玉と、それを再び包み込む、あなたの手のひらのあたたかさを想像していた。包み込んだあなたの手は、右手だろうか、左手だろうか。あたためられたピンポン玉は、あなたの濡れた手の中で、ふやけてしまったりはしていないだろうか。
このようにして、上階の住人とのやりとりが終わった。あの音はやっぱりピンポン玉の音だったのだろう、多分。でも、まだ手紙を出せていないので、きっと明日には夢の中で、あなたの家のチャイムを押そうと決めて、私は就寝した。
2023年一部加筆・修正